宇和島城の城主は誰だった?藤堂高虎から宇和島伊達家まで歴代の歩みをたどる!

宇和島城の城主は誰だった?藤堂高虎から宇和島伊達家まで歴代の歩みをたどる! 観光

宇和島城の城主について調べると、伊達政宗や伊達秀宗、藤堂高虎など複数の有名武将が登場するため、結局誰が城主だったのか分かりにくいと感じる人も多いでしょう。

現在の宇和島城の基礎を築いた人物として特に重要なのは藤堂高虎であり、江戸時代には伊達政宗の長男である伊達秀宗が入城して宇和島藩が始まりました。

その後は初代秀宗から9代宗徳まで宇和島伊達家が城主として続き、明治維新を迎えるまで宇和島城は伊達家の居城として機能しました。

ここでは宇和島城の城主を時代順に整理し、それぞれの人物が城や城下町に与えた影響、伊達政宗との関係、歴代藩主の特徴まで詳しく紹介します。

宇和島城の城主は誰だった?

宇和島城の城主を一人だけ挙げることはできず、中世から近世にかけて支配者が何度も入れ替わっています。

現在の城郭につながる歴史を理解するうえでは、西園寺氏の時代から藤堂高虎、富田信高を経て、宇和島伊達家へ移っていく流れを押さえることが重要です。

特に1615年に伊達秀宗が入城してからは、明治維新まで宇和島伊達家が代々宇和島を治めました。

西園寺宣久

現在の宇和島城がある場所には、近世城郭が整えられる以前から板島丸串城と呼ばれる城が存在していたとされています。

戦国時代には南予地域で勢力を持っていた西園寺氏と関係が深く、1575年には西園寺宣久が板島丸串城の城主になったと伝えられています。

当時の城は後世の宇和島城とは構造が大きく異なり、現在見られる天守や石垣を備えた近世城郭ではありませんでした。

そのため宇和島城の歴史を語る場合、西園寺宣久は前身となった城の城主として位置付けると理解しやすいでしょう。

  • 城名:板島丸串城
  • 城主:西園寺宣久
  • 入城:1575年
  • 時代:戦国時代

藤堂高虎

現在の宇和島城につながる本格的な築城を行った人物として最も重要なのが、築城の名手として知られる藤堂高虎です。

高虎は1595年に宇和郡7万石を与えられ、翌1596年ごろから板島丸串城の大規模な修築に着手し、1601年ごろに近世城郭として完成させました。

標高約73メートルの丘陵と海を巧みに利用した縄張は、高虎が得意とした実戦的な城づくりを示すものとして評価されています。

現在の宇和島城は後世に改修されていますが、城山全体の縄張などには高虎時代の特徴が受け継がれており、宇和島城の実質的な築城者として藤堂高虎の名が広く知られています。

項目 内容
人物 藤堂高虎
領地 宇和郡7万石
築城開始 1596年ごろ
完成 1601年ごろ
特徴 現在につながる城郭を整備

富田信高

藤堂高虎が宇和島を離れた後、1608年には富田信高が宇和島城の城主となりました。

富田信高の時代は藤堂高虎や宇和島伊達家ほど長くないため、宇和島城の歴史を紹介する際に簡略化されることもあります。

しかし藤堂高虎から伊達秀宗へ直接城主が交代したわけではなく、その間に富田信高が宇和島を治めた時期が存在したことは歴史の流れを理解するうえで重要です。

富田氏の改易後には一時的に藤堂氏の管理下に置かれ、その後に伊達秀宗の宇和島入部へとつながっていきました。

伊達秀宗

宇和島城の歴史に大きな転機をもたらした人物が、宇和島伊達家初代藩主となった伊達秀宗です。

秀宗は独眼竜の名で知られる仙台藩主伊達政宗の長男で、大坂冬の陣後に宇和郡10万石を与えられ、1615年に宇和島城へ入城しました。

これによって宇和島藩が成立し、以後約250年にわたって宇和島伊達家が地域を治める時代が始まります。

政宗自身が宇和島城主になったわけではなく、政宗の長男である秀宗が仙台伊達家とは別に宇和島伊達家を興したという点を区別して覚えることが重要です。

  • 父:伊達政宗
  • 宇和島入部:1615年
  • 石高:10万石
  • 位置付け:宇和島伊達家初代
  • 役割:宇和島藩の基礎を形成

伊達宗利

現在見られる宇和島城天守と特に深い関係を持つ城主が、宇和島伊達家2代藩主の伊達宗利です。

宗利は1660年代から城郭の大改修を進め、藤堂高虎が建てた天守に代わる新しい天守を1666年ごろに完成させたとされています。

現在の天守は三重三階の層塔型で、白壁と装飾性の高い破風などを備え、戦国時代の軍事一辺倒の城とは異なる太平の世の城らしい姿を見せています。

宇和島城を訪れて現在の天守を見る場合には、高虎が最初の天守を築き、宗利が現在まで残る天守へ建て替えたという二段階の歴史を知っておくと理解が深まります。

比較項目 藤堂高虎時代 伊達宗利時代
時期 1601年ごろ 1666年ごろ
天守 望楼型 層塔型
位置付け 創建天守 現存天守
特徴 岩盤を利用 天守台を整備

宇和島伊達家9代

伊達秀宗が宇和島へ入った1615年以降、宇和島城は初代秀宗から9代宗徳まで宇和島伊達家9代の居城となりました。

各藩主は城郭の整備だけでなく、農政や財政、教育、産業振興、幕末の政治など、それぞれ異なる分野で宇和島藩の運営に関わっています。

藩主交代が繰り返されても宇和島城を中心とした城下町の構造は維持され、城は南予地域の政治的な中心として長期間機能しました。

宇和島城を単なる藤堂高虎の築城作品として見るだけではなく、約250年間に及ぶ伊達家の居城として見ることによって、この城が持つ歴史的な意味がより明確になります。

  • 初代:伊達秀宗
  • 2代:伊達宗利
  • 3代:伊達宗贇
  • 4代:伊達村年
  • 5代:伊達村候
  • 6代:伊達村寿
  • 7代:伊達宗紀
  • 8代:伊達宗城
  • 9代:伊達宗徳

伊達宗城

宇和島伊達家の歴代城主の中でも全国的に特に有名なのが、8代藩主伊達宗城です。

宗城は幕末の四賢侯の一人に数えられ、藩政改革を進めながら高野長英や村田蔵六など有能な人物を宇和島へ招き、西洋技術の導入や軍備の近代化を推進しました。

宇和島という地方藩でありながら幕末政治に大きな存在感を示したため、宇和島城の歴代城主を調べる際には初代秀宗と並んで名前を目にする機会が多い人物です。

宗城の活躍を知ることで、宇和島藩が単に伊達家の地方領国だっただけではなく、日本の近代化につながる政治や技術の動きにも関与していたことが分かります。

伊達宗徳

宇和島藩最後の藩主となったのが9代伊達宗徳です。

宗徳は7代宗紀の三男として生まれ、8代宗城の養嗣子となった後に家督を継ぎ、幕末から明治維新という大きな転換期に宇和島藩を率いました。

宗徳の時代には幕藩体制そのものが終わりを迎えたため、宇和島城も近世大名の政治拠点としての役割を終えることになります。

つまり宇和島城の城主という観点では、戦国期の西園寺氏などから始まった長い歴史が、藩主としては伊達宗徳の時代に一つの区切りを迎えたと考えることができます。

項目 内容
人物 伊達宗徳
位置付け 宇和島藩9代藩主
父 伊達宗紀
養父 伊達宗城
時代 幕末から明治

宇和島伊達家はどのように始まった?

宇和島城の城主を理解するときに欠かせないのが、仙台伊達家と宇和島伊達家の関係です。

宇和島伊達家は伊達政宗の長男秀宗を初代として始まったため、仙台の伊達家と極めて深い血縁関係があります。

一方で宇和島藩は仙台藩の一部だったわけではなく、秀宗が独立した大名として宇和島を治めたことによって成立しました。

政宗との関係

宇和島城について検索すると伊達政宗の名前が頻繁に登場しますが、伊達政宗自身が宇和島城の城主になったわけではありません。

政宗は仙台藩の初代藩主であり、その長男秀宗が宇和島藩を与えられたことで宇和島伊達家が誕生しました。

秀宗の宇和島入部に際しては東北から多くの家臣やその家族、商人、職人などが移住したと伝えられ、宇和島の文化や社会にも大きな影響を与えました。

仙台と宇和島が遠く離れているにもかかわらず現在まで伊達の名が宇和島に強く残っている背景には、この大規模な人の移動と宇和島伊達家の長い統治があります。

  • 伊達政宗:仙台藩初代
  • 伊達秀宗:政宗の長男
  • 宇和島入部:1615年
  • 宇和島伊達家:秀宗から成立
  • 仙台藩との関係:同族だが別の藩

10万石の成立

伊達秀宗は大坂冬の陣後に宇和郡10万石を与えられ、これを基礎として宇和島藩が成立しました。

ただし初代秀宗の隠居時には五男宗純へ吉田3万石が分けられたため、本藩の実高は7万石となった時期があります。

その後3代宗贇の時代に幕府へ石高の高直しを願い出て認められ、宇和島藩は再び表高10万石として扱われるようになりました。

「伊達十万石」という宇和島を象徴する言葉には、このような領地の分割と石高の高直しを経た歴史が背景にあります。

時期 石高 主な出来事
秀宗入部時 10万石 宇和島藩成立
1657年以降 7万石 吉田へ3万石を分知
1696年以降 表高10万石 高直しが認められる

城下町の形成

伊達秀宗が宇和島へ入部すると、宇和島城は城郭として使われるだけではなく、藩政を行う城下町の中心として機能していきました。

城の麓には藩の施設や武家屋敷などが配置され、その周囲に町人地が広がることで、現在の宇和島中心市街地につながる都市構造が形成されていきます。

宇和島城がある丘陵は現在の市街地のほぼ中央に位置しており、城を中心として町が発展してきた歴史を現在の地図からも感じることができます。

伊達家が長期間同じ城を居城としたことによって政治と経済の中心が安定し、宇和島は四国西南部を代表する城下町へ成長しました。

宇和島伊達家の歴代藩主は何をした?

宇和島伊達家は初代秀宗から9代宗徳まで続きましたが、藩主ごとに政治上の課題や功績は大きく異なります。

城そのものに大きな影響を与えた宗利、藩財政や産業の立て直しを進めた村候、幕末政治で活躍した宗城など、各時代を象徴する人物が存在します。

歴代藩主の特徴を知ると、宇和島城が単なる観光名所ではなく長期間にわたって藩政の中心だったことが分かります。

初代から3代

初代秀宗の最大の役割は宇和島藩を成立させ、仙台伊達家とは別の大名家として宇和島伊達家の基盤を築いたことです。

2代宗利は城郭の大改修を行い、現在残る宇和島城天守を完成させるなど、城の姿に最も直接的な影響を与えました。

3代宗贇は仙台藩主伊達綱宗の三男で、宗利の娘である三保姫の婿養子となって宇和島伊達家を継ぎました。

宗贇の時代には吉田への分知によって7万石となっていた宇和島藩について高直しを願い出て、1696年に表高10万石への復帰が認められています。

代 藩主 主な特徴
初代 秀宗 宇和島藩を創設
2代 宗利 城郭を大改修
3代 宗贇 10万石へ高直し

4代から6代

4代村年は製紙の奨励や植林など産業振興に取り組みましたが、その治世には享保の大飢饉も起こり、厳しい藩政運営を迫られました。

5代村候は長期間にわたって藩主を務め、農政の強化や財政再建、風紀の改善などを進めたことから宇和島藩中興の祖として評価されています。

村候は教育にも力を入れ、1748年には藩校の内徳館を設け、後に宇和島の人材育成を支える教育機関へと発展していきました。

6代村寿の時代を経て7代宗紀へ家督が継承される頃には、幕末の政治的・軍事的な変化に対応するための改革が次第に重要になっていきます。

  • 4代村年:製紙や林業を振興
  • 5代村候:財政や農政を立て直す
  • 5代村候:藩校を設立
  • 6代村寿:宗紀へ家督を継承

7代から9代

7代宗紀は倹約を進めながら財政、農政、軍事など幅広い藩政改革に取り組み、その改革は次代の宗城にも引き継がれました。

8代宗城は優秀な人材を積極的に登用し、西洋の知識や技術を取り入れることで宇和島藩の近代化を進め、幕末には全国政治でも重要な役割を果たしました。

9代宗徳は宗城から家督を継いで幕末の難しい時代に藩政を担い、その在任中に大政奉還や戊辰戦争、明治維新など日本の政治体制を根本から変える出来事が相次ぎました。

宇和島伊達家9代の歴史は宗徳の時代に近世大名家としての役割を終えますが、伊達家そのものは明治以降も続き、宇和島に残る歴史文化の保存にも深く関わっていきます。

代 藩主 特徴
7代 宗紀 藩政改革を推進
8代 宗城 近代化と幕末政治
9代 宗徳 明治維新を迎える

現在の宇和島城はどの城主の時代のもの?

現在の宇和島城を見るときには、すべての建物が一人の城主によって造られたわけではないことを理解しておく必要があります。

城の縄張や近世城郭としての基礎は藤堂高虎の時代に形成されましたが、現存する天守は宇和島伊達家2代宗利の時代に建てられたものです。

さらに明治以降の建物撤去や戦災などを経ているため、現在の宇和島城は複数の時代の歴史が重なった史跡となっています。

藤堂高虎の縄張

藤堂高虎が宇和島城を整備した当時、城山の周囲には海が迫っており、海や堀を防御に利用できる地形になっていました。

丘陵部に本丸や二之丸などを配置し、その周囲の平地と一体化させた構造から、宇和島城は平山城であると同時に水城としての性格も持っていました。

高虎は各地の築城に関わったことで知られていますが、宇和島城にも自然地形を活用しながら防御力を高める高虎らしい城づくりを見ることができます。

現在では海岸線の変化や堀の埋め立てによって築城当時とは景観が大きく変わっていますが、城山の郭や石垣などから当時の縄張を読み取ることができます。

  • 城種:平山城
  • 性格:水城
  • 中心:標高約73メートルの丘陵
  • 特徴:海と地形を防御に活用
  • 築城者:藤堂高虎

宗利の現存天守

宇和島城で現在見ることのできる天守は、藤堂高虎が1601年ごろに造った天守そのものではありません。

2代藩主伊達宗利が寛文年間に大規模な城郭改修を行い、1666年ごろに新しい三重三階の天守を建てたものが現在まで残っています。

高虎時代の天守は自然の岩盤を利用した望楼型だったと考えられていますが、宗利は石垣造りの天守台を整えて層塔型の天守へ大きく変更しました。

そのため宇和島城について「誰が建てた城か」と聞かれた場合は藤堂高虎、「現在の天守を誰が建てたか」と聞かれた場合は伊達宗利と答えるのが正確です。

質問 人物
近世宇和島城を築いた人物 藤堂高虎
最初の天守を築いた人物 藤堂高虎
現存天守を築いた人物 伊達宗利
宇和島藩初代藩主 伊達秀宗

明治以降の保存

明治維新によって城が藩主の政治拠点として使われなくなると、宇和島城でも多くの建造物が失われていきました。

かつては多数の櫓や門などが存在していましたが、現在まで残る主要な歴史的建造物は天守と上り立ち門などに限られています。

天守は1934年に国の重要文化財に指定され、宇和島城の丘陵部も1937年に国の史跡に指定されるなど、その歴史的価値が公的に認められました。

城山は長く伊達家によって守られた後、1949年に天守を含む丘陵部が宇和島市へ譲渡され、現在は市民や観光客が歴史に触れられる場所として保存されています。

宇和島城の城主を知ってから訪れると何が見える?

宇和島城は天守だけを短時間見学しても楽しめますが、歴代城主の歴史を知ってから歩くことで見え方が大きく変わります。

藤堂高虎の縄張、伊達宗利の天守、宇和島伊達家が築いた城下町という複数の時代を意識すると、城内に残る石垣や登城道も歴史の一部として理解できます。

さらに宇和島市内には伊達家に関係する寺院や庭園、博物館などがあり、城と合わせることで宇和島藩の歴史を立体的にたどれます。

天守

宇和島城を訪れた際に最も注目したいのは、江戸時代から残る現存天守です。

現在まで江戸時代以前の天守が残っている城は全国でも限られており、宇和島城は現存12天守の一つとして非常に貴重な存在です。

外観は三重三階で比較的小規模ですが、白い壁や複数の破風など装飾性が高く、戦乱が少なくなった江戸時代らしい格式を意識した意匠を見ることができます。

天守を見る際には藤堂高虎の創建天守ではなく2代宗利が建て替えたものであることを思い出すと、宇和島城の歴史が一段と分かりやすくなります。

項目 内容
建築時期 1666年ごろ
建築した藩主 伊達宗利
構造 三重三階
分類 現存12天守
文化財 国指定重要文化財

城山

天守へ向かう登城道では、建物だけではなく城山そのものにも注目すると藤堂高虎が整えた城郭の特徴を感じられます。

宇和島城は平地だけに造られた城ではなく、丘陵を利用して本丸や二之丸などの郭を配置しており、急な地形そのものが防御設備の役割を果たしていました。

現在の市街地から見ると海から離れているように感じられますが、築城当時は海が城のすぐ近くまで入り込み、水を防御に利用できる環境でした。

城山を歩くときには現在の町並みだけを基準にするのではなく、かつて周囲に海や堀が存在した姿を想像すると高虎の縄張の狙いが分かりやすくなります。

  • 本丸跡
  • 二之丸跡
  • 石垣
  • 登城道
  • 上り立ち門

伊達家ゆかりの場所

宇和島伊達家についてさらに知りたい場合は、宇和島城だけでなく城下に残る伊達家ゆかりの場所にも足を延ばすとよいでしょう。

歴代藩主や夫人の墓所がある等覚寺や大隆寺、7代宗紀の隠居所として整えられた天赦園などを訪れると、城内だけでは分からない藩主たちの生活や文化に触れられます。

宇和島市立伊達博物館では宇和島伊達家に伝わった甲冑や古文書、美術工芸品などを通じて、歴代藩主や宇和島藩の歴史を学ぶことができます。

城主という人物を軸に城下町を歩けば、宇和島城が単独で存在した建築物ではなく、藩主、家臣、町人が暮らした都市全体の中心だったことを実感しやすくなります。

宇和島城と伊達政宗を混同しないためには?

宇和島城の城主を調べる際に最も多い混同の一つが、伊達政宗を宇和島藩主だと考えてしまうことです。

宇和島に伊達家の文化が色濃く残っているのは事実ですが、宇和島伊達家を始めた人物は政宗本人ではなく長男の秀宗です。

さらに宇和島城の築城者と現存天守の建築者も異なるため、人物ごとの役割を整理しておくと理解しやすくなります。

政宗は仙台藩主

伊達政宗は東北地方を代表する戦国武将として知られ、江戸時代には仙台藩の初代藩主となった人物です。

政宗の本拠は仙台であり、四国の宇和島へ移って宇和島城を居城としたことはありません。

宇和島と政宗のつながりは、長男の秀宗が宇和島藩主となったことによって生まれています。

したがって宇和島城を伊達家の城と呼ぶことはできますが、伊達政宗の居城と呼ぶのは正確ではありません。

  • 伊達政宗:仙台藩初代藩主
  • 本拠:仙台
  • 伊達秀宗:政宗の長男
  • 秀宗の本拠:宇和島

秀宗が初代藩主

伊達秀宗は政宗の長男として生まれましたが、父が治める仙台藩をそのまま継承した人物ではありません。

大坂冬の陣後に宇和郡10万石を与えられ、1615年に宇和島へ入ったことで独立した大名家である宇和島伊達家の初代となりました。

その後、秀宗の子孫や仙台伊達家から迎えた養子などによって宇和島伊達家が継承され、9代宗徳まで藩主が続きます。

宇和島で「伊達」と聞いた場合は、政宗だけを思い浮かべるのではなく、秀宗から始まる宇和島伊達家を意識することが重要です。

人物 立場 主な拠点
伊達政宗 仙台藩初代藩主 仙台
伊達秀宗 宇和島藩初代藩主 宇和島
伊達宗利 宇和島藩2代藩主 宇和島
伊達宗城 宇和島藩8代藩主 宇和島

築城者も別人物

もう一つ覚えておきたいのが、宇和島伊達家が宇和島城をゼロから築いたわけではないという点です。

伊達秀宗が入城する以前に藤堂高虎が本格的な近世城郭を完成させており、秀宗は高虎らが整備した城を引き継ぐ形で宇和島城へ入りました。

その後2代宗利が大改修を行って現在の天守を建てたため、宇和島城には藤堂高虎と伊達家双方の歴史が残っています。

築城者は藤堂高虎、宇和島藩初代藩主は伊達秀宗、現存天守の建築者は伊達宗利と整理すると、人物関係を混同しにくくなります。

宇和島城は藤堂高虎と伊達家の歴史を伝える城

宇和島城の城主をたどると、中世の西園寺氏から藤堂高虎、富田信高を経て、1615年に伊達秀宗が入城した後は宇和島伊達家9代が明治維新まで城を受け継いだことが分かります。

現在につながる近世城郭を築いた中心人物は藤堂高虎ですが、現在残る天守は宇和島伊達家2代藩主の伊達宗利が1666年ごろに建てたものです。

伊達政宗自身が宇和島城主だったわけではなく、政宗の長男秀宗が宇和島藩初代藩主となって宇和島伊達家を興したという関係も押さえておきましょう。

その後は村候による藩政や教育の充実、宗紀による改革、幕末の四賢侯として知られる宗城の活躍、最後の藩主宗徳による明治維新まで、宇和島城を中心にさまざまな歴史が展開しました。

宇和島城を訪れる際には藤堂高虎の縄張と伊達宗利の現存天守、そして約250年に及ぶ宇和島伊達家の歩みという三つの視点を持つことで、城の魅力をより深く感じられるでしょう。