愛媛県松山市の中心にそびえる松山城は、戦国武将の加藤嘉明が築城を始めた城として知られています。
加藤嘉明は豊臣秀吉のもとで「賤ヶ岳の七本槍」の一人として名を上げ、関ヶ原の戦い後に伊予20万石を領すると、それまでの正木城に代わる新たな本拠地として勝山に大規模な城郭を築き始めました。
ただし、現在見ることができる松山城の天守が、そのまま加藤嘉明の時代から残っているわけではなく、城主交代や改築、火災、再建を経て現在の姿になっています。
松山城と加藤嘉明の関係を知るには、嘉明自身の生涯だけでなく、築城が始まった背景や城下町の形成、後の蒲生氏や松平氏による整備まで含めて理解することが重要です。
ここでは、松山城を訪れる前に知っておきたい加藤嘉明の人物像から築城の経緯、現在の城に残る嘉明時代の面影まで詳しく紹介します。
松山城と加藤嘉明の関係とは?
松山城と加藤嘉明の関係を端的に表すなら、嘉明は現在の松山城と城下町松山の基礎をつくった人物です。
関ヶ原の戦い後に20万石へ加増された嘉明は、それまで本拠地としていた正木城から、松山平野の中央にある勝山へ本拠地を移すことを決めました。
1601年に築城の許可を受け、1602年に工事を開始し、1603年には新しい城へ移ったとされています。
ただし嘉明は完成を見る前の1627年に会津へ転封されたため、現在の松山城の歴史は嘉明一人だけで完成したものではありません。
築城を始めた人物
松山城の築城を開始したのは、伊予を治めていた戦国武将の加藤嘉明です。
嘉明は1601年に徳川家康から築城の許可を得ると、本丸・二之丸・三之丸を備えた大規模な城郭を構想し、翌1602年から本格的な工事を始めました。
松山城が建つ勝山は現在でも松山市中心部を見渡せる独立丘陵であり、防御だけでなく領国支配の拠点としても適した場所でした。
そのため松山城は単なる武将の居館ではなく、新しい時代の城下町を形成する中心として計画された城だったと考えると理解しやすいでしょう。
築城開始は1602年
松山城の築城工事が始まったのは慶長7年にあたる1602年で、当時の加藤嘉明はおよそ40歳でした。
築城許可自体は前年の1601年に得ており、城を建てる場所や本丸・二之丸・三之丸などの配置を定めたうえで工事に着手しています。
現在のような大型重機が存在しない時代に山頂を削り、石垣を築き、山麓まで含めて巨大な城郭を整備する作業は非常に大規模なものでした。
そのため松山城の建設には約四半世紀もの長い時間を必要とし、日本の城郭史の中でも長期間に及んだ築城として知られています。
関ヶ原後に20万石
加藤嘉明が松山城を築くことになった大きな転機が、1600年の関ヶ原の戦いでした。
嘉明は徳川家康率いる東軍側として戦い、その功績によって所領を加増され、伊予20万石を治める有力大名となります。
領地が大幅に増えたことで、それまで使用していた正木城では新しい領国経営の中心として十分ではなくなったことが、新城建設の背景にあったとされています。
戦での功績による石高の増加と、新しい大名領国にふさわしい政治拠点の必要性が、松山城誕生へとつながりました。
正木城から移転
松山城を築く以前、加藤嘉明は現在の愛媛県伊予郡松前町にあった正木城を本拠地としていました。
正木城は平地に位置する城でしたが、20万石という規模になった嘉明の領国経営を担うには、新たな城と城下町を整備する必要性が高まったと考えられています。
1603年には築城途中でありながら嘉明が正木城から新しい松山城へ移ったとされ、その後は勝山周辺が伊予における重要な政治拠点となっていきました。
現在の松山市中心部が発展する出発点をたどると、この正木から勝山への拠点移転に行き着きます。
松山の名を付けた
松山という名称も、加藤嘉明と深い関係があります。
築城地となった山はもともと勝山と呼ばれていましたが、1603年に嘉明が新しい城を松山城と名付けたと伝えられています。
城の名称だけでなく、その周辺に形成された城下町も松山と呼ばれるようになり、現在まで続く松山という都市名の基礎になりました。
加藤嘉明は松山城を築いた人物であると同時に、現在の松山市につながる都市形成の出発点をつくった人物としても重要です。
完成前に会津へ転封
加藤嘉明は長期間にわたって松山城の築城を進めましたが、最終的な完成を見届けることなく伊予を離れました。
1627年、嘉明は伊予松山20万石から会津40万石へ転封され、現在の福島県会津若松市周辺を治める大名になります。
松山城ではすでに主要部分の整備がかなり進んでいましたが、残された工事は次に城主となった蒲生忠知へ引き継がれました。
このため「松山城を築いたのは加藤嘉明」という説明は正しいものの、「現在の松山城を嘉明がすべて完成させた」という理解とは分けて考える必要があります。
現在の天守とは別物
松山城を観光するときに特に注意したいのが、現在の大天守を加藤嘉明が建てた建物だと思わないことです。
嘉明が築城した当初の天守は五層だったと伝えられていますが、その後の城主である松平定行の時代に三層へ改築されたとされています。
さらに1784年には落雷によって天守を含む本壇の主要建物が焼失し、現在の大天守は江戸時代末期に再建されたものです。
つまり、現在の松山城には嘉明の城郭設計を受け継ぐ部分がある一方、目の前に建つ天守自体は後世の松平氏による再建建築です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 築城許可 | 1601年 |
| 築城開始 | 1602年 |
| 嘉明の入城 | 1603年 |
| 当時の石高 | 20万石 |
| 会津転封 | 1627年 |
| 現在の天守 | 幕末期の再建 |
加藤嘉明はどんな武将だったのか
松山城の歴史を深く理解するには、その築城者である加藤嘉明がどのような人生を歩んだ武将なのかを知ることが欠かせません。
嘉明は豊臣秀吉に仕えた武将として頭角を現し、賤ヶ岳の戦いをきっかけに全国的に知られる存在となりました。
その後も水軍を率いた戦いや朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなどを経験し、戦国時代から江戸時代へ移る激動の時代を生き抜いています。
松山城の大規模で実戦的な構造にも、多くの戦場を経験した嘉明の考え方が反映されていると見ることができます。
賤ヶ岳の七本槍
加藤嘉明の名前を全国的に有名にした出来事が、1583年に羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いです。
この戦いで活躍した秀吉配下の若手武将たちは「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれ、嘉明もその一人として後世に名前を残しました。
同じ七本槍には加藤清正や福島正則など、後に大大名となった武将も含まれており、嘉明が秀吉政権を支えた重要な武将の一人だったことが分かります。
松山城だけを知っていると築城者としての印象が強い嘉明ですが、もともとは戦場で実績を重ねて出世した典型的な戦国武将でした。
- 豊臣秀吉に仕える
- 賤ヶ岳の戦いで活躍
- 七本槍の一人となる
- 伊予で大名となる
- 関ヶ原では東軍に参加
- 最終的に会津40万石へ転封
伊予で勢力を拡大
嘉明は豊臣政権下で伊予に領地を与えられ、当初は正木を中心として領国経営を進めました。
伊予へ入った時点から20万石の大名だったわけではなく、軍功などを重ねることで領地を増やし、徐々に有力大名へ成長していきます。
瀬戸内海に面する伊予は陸上交通だけでなく海上交通も重要な地域であり、嘉明自身も水軍を率いた経験を持つ武将でした。
こうした軍事や交通への理解を持つ嘉明が、伊予の新たな中心として松山平野を選んだことは、その後の都市発展を考えるうえでも重要です。
豊臣から徳川へ
加藤嘉明の特徴の一つは、豊臣秀吉に抜擢された武将でありながら、秀吉死後の関ヶ原の戦いでは徳川家康側についたことです。
1600年の関ヶ原では東軍として行動し、その戦功が評価されて伊予で10万石を加増され、合計20万石となりました。
この加増によって嘉明は従来よりはるかに大きな領国を統治することになり、新しい政治・軍事拠点として松山城を築く条件が整います。
嘉明の生涯を時系列で見ると、戦国武将としての軍功が松山城築城へ直接つながっていることが分かります。
| 時期 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1563年 | 三河国で誕生 |
| 1583年 | 賤ヶ岳の戦いで活躍 |
| 豊臣政権期 | 伊予の大名となる |
| 1600年 | 関ヶ原で東軍に参加 |
| 1602年 | 松山城築城開始 |
| 1627年 | 会津40万石へ転封 |
| 1631年 | 死去 |
加藤嘉明が松山城を築いた理由を読み解く
加藤嘉明がなぜ正木城を離れ、勝山に新しい松山城を築いたのかを考えると、単に大きな城が欲しかったからではないことが分かります。
関ヶ原後に領地が20万石へ拡大したことに加え、防御性や交通、領国統治、城下町形成などを総合的に考えた新しい政治拠点が必要になっていました。
松山平野のほぼ中央に位置する勝山は、その条件を満たす場所として非常に優れていました。
松山城は戦争に備える軍事施設であると同時に、新しい城下町をつくり領国を安定して運営するための行政拠点でもあったのです。
20万石にふさわしい本拠地
関ヶ原以前と以後では、加藤嘉明が治める領地の規模が大きく変わりました。
東軍としての功績によって10万石を加増されて20万石となったことで、従来の正木城を中心とする体制を見直す必要が生じたと考えられています。
大名の石高が増えれば家臣団の規模や行政組織も大きくなり、それらを収容する城下町にも相応の規模が必要になります。
そこで嘉明は城だけを建て替えるのではなく、城と城下町を一体として新しく整備する道を選びました。
- 領地が20万石へ拡大
- 家臣団の規模が増加
- 行政機能の集約が必要
- 城下町の拡張が必要
- 新たな防衛拠点が必要
勝山の防御力
松山城の本丸が置かれた勝山は標高132メートルの独立丘陵で、周囲の平野から際立って高く見える地形です。
山頂に本丸を配置すれば敵が攻め上る際に高低差そのものを防御に利用でき、周囲の動きを遠くまで見渡すこともできます。
一方で城の周囲には平坦な土地が広がっているため、山麓に二之丸や三之丸、武家屋敷、町人地などを整備する余地もありました。
山城ほど生活や行政に不便ではなく、平城より高い防御力を確保できる平山城という形式は、江戸時代初期の大名の本拠地として合理的でした。
城下町を一体整備
松山城築城の重要な点は、城そのものだけでなく、その周囲に新しい城下町を形成したことです。
家臣を城の周辺に配置し、その外側に商人や職人が活動する地域を設ければ、政治・軍事・経済の機能を一か所へ集めることができます。
現在の松山市中心部の都市構造も長い時間を経て大きく変化していますが、その出発点をたどれば加藤嘉明による松山城築城と城下町整備に行き着きます。
松山城を単独の観光施設として見るだけでなく、周囲の市街地まで一つの城下町として眺めると、嘉明の築城事業の大きさを実感しやすくなります。
| 視点 | 勝山を選ぶ利点 |
|---|---|
| 軍事 | 高低差を防御に利用 |
| 監視 | 松山平野を見渡せる |
| 行政 | 領国支配の中心に適する |
| 城下町 | 山麓に広い市街地を形成可能 |
| 交通 | 平野部の往来を管理しやすい |
松山城は加藤嘉明の時代に完成したのか
松山城について調べると「加藤嘉明が築いた城」と説明される一方で、蒲生忠知や松平定行といった別の城主の名前も登場します。
これは嘉明が築城を開始して主要部分を整備したものの、完成前に会津へ転封され、その後も城の整備や改築が続いたためです。
さらに現在残る大天守は創建時のものではなく、火災を経た後に江戸時代末期になって再建された建築です。
松山城の歴史は加藤氏、蒲生氏、松平氏という複数の城主によって受け継がれた長い歴史として理解する必要があります。
築城には約四半世紀
松山城は1602年に工事が始まってから主要な城郭が整うまで、約四半世紀という長期間を要しました。
勝山の山頂部分を造成して本丸を築き、山腹に二之丸、山麓に三之丸を設け、さらに周囲へ堀や城下町を配置する大規模な計画だったためです。
石垣や門、櫓、天守を建てるだけでなく、道路や水路など城下町を機能させるための都市基盤も必要でした。
長い築城期間そのものが、松山城が一地方大名の小規模な城ではなく、20万石の領国を統治する巨大な拠点だったことを物語っています。
- 山頂に本丸を整備
- 山腹に二之丸を整備
- 山麓に三之丸を整備
- 外周に堀を設置
- 武家地を形成
- 城下町を整備
蒲生忠知が引き継ぐ
1627年に加藤嘉明が会津40万石へ転封されると、松山には蒲生氏郷の孫にあたる蒲生忠知が入ります。
嘉明の時代に松山城はほぼ形を整えていましたが、忠知の時代にも残された工事が進められ、二之丸などが完成したとされています。
そのため松山城の築城史では、基本設計から大規模な整備を進めた創設者が加藤嘉明であり、その事業を完成へ導いた城主として蒲生忠知が位置付けられます。
一人の武将が短期間で造り上げた城ではなく、複数の城主にまたがって完成したことが松山城の特徴の一つです。
松平氏の城になる
蒲生忠知が1634年に後継者を残さず亡くなったことで蒲生家は断絶し、翌1635年には松平定行が松山城主として入城しました。
松平定行は徳川家康と血縁関係を持つ親藩大名で、それ以降、松山城は明治維新まで長期間にわたって松平家の居城となります。
現在の松山城で見られる葵の紋や、現在につながる天守の歴史には、この松平氏時代の影響が強く表れています。
築城者の加藤嘉明だけを見ていると見落としやすいものの、松山城は約260年の江戸時代を通じて何度も姿を変えてきました。
| 城主 | 松山城との関係 |
|---|---|
| 加藤嘉明 | 築城を開始 |
| 蒲生忠知 | 残る築城事業を継承 |
| 松平定行 | 天守などを改築 |
| 松平氏 | 幕末まで城主を継承 |
現在の松山城に残る加藤嘉明の面影
現在の松山城を訪れても、建物のすべてが加藤嘉明の時代から残っているわけではありません。
しかし城山全体を利用した巨大な城郭配置や石垣、防御を重視した構造などを見ると、嘉明が築城を始めた当時の基本的な思想を感じられる場所があります。
松山城観光では天守だけを見るのではなく、本丸へ至る道や門の配置、山腹と山麓を含めた城全体を見ることで歴史がより分かりやすくなります。
加藤嘉明という人物を意識して歩けば、松山城が単なる眺望スポットではなく戦国時代の経験を反映した巨大な軍事施設だったことも見えてきます。
平山城の巨大な縄張り
松山城は標高132メートルの勝山山頂に本丸を置き、その山腹に二之丸、山麓に三之丸を配置する広大な平山城です。
山頂だけに施設を集中させる山城とは異なり、政治や生活の場を山麓まで広げながら、本丸だけは高所へ置いて防御力を高めています。
本丸から松山平野を見渡すと、嘉明がなぜこの山を新しい本拠地に選んだのかを地形から理解しやすくなります。
城を訪れた際には天守の建築美だけでなく、山と平地を一体的に利用した巨大な縄張りにも目を向けてみるとよいでしょう。
- 勝山山頂の本丸
- 山腹の二之丸
- 山麓の三之丸
- 周囲を囲む堀
- 城下町へ続く平地
- 高低差を使った防御
複雑な防御構造
松山城の本丸へ向かうと、門や石垣が複雑に配置され、一直線に天守へ近づきにくい構造になっていることに気付きます。
敵が侵入した場合に方向転換を繰り返させたり、複数方向から攻撃できる場所を設けたりすることは、近世城郭で広く用いられた防御方法です。
嘉明は賤ヶ岳をはじめ多くの戦場を経験した武将であり、松山城も実戦を想定した防御性の高い城として計画されました。
現在はロープウェイやリフトで比較的簡単に本丸近くまで行けますが、徒歩で登城すると城山自体が巨大な防御施設になっていることをより実感できます。
現在の天守との違い
加藤嘉明が築いた松山城を知るうえで、創建時の天守と現在の天守を区別することは非常に重要です。
創建当初の天守は五層だったと伝えられていますが、松平定行の時代である1642年に三層へ改築されたとされています。
その天守も1784年の落雷で焼失し、幕末になって再建工事が進められ、現在残る大天守は1854年に落成したものです。
そのため現在の天守を見ながら加藤嘉明本人がこの建物を見ていたと考えるのではなく、嘉明が築いた城郭を後世の城主が受け継ぎながら姿を変えてきたと考えるのが正確です。
| 時期 | 天守の状況 |
|---|---|
| 加藤嘉明期 | 五層天守と伝わる |
| 1642年 | 三層へ改築と伝わる |
| 1784年 | 落雷で焼失 |
| 1847年 | 再建工事を開始 |
| 1854年 | 現在の天守が落成 |
加藤嘉明を知って松山城を見ると歴史がもっと面白くなる
松山城と加藤嘉明の関係をたどると、現在の松山市の原点ともいえる壮大な都市づくりが見えてきます。
豊臣秀吉のもとで賤ヶ岳の七本槍として名を上げた嘉明は、関ヶ原の戦いでは徳川方として戦い、伊予20万石の大名となったことをきっかけに1602年から松山城の築城を始めました。
1603年には正木城から新城へ移り、勝山周辺を松山と呼ぶようになったことで、現在まで続く松山という都市の歴史が本格的に始まります。
築城は非常に大規模で、勝山山頂の本丸から山腹の二之丸、山麓の三之丸、さらに城下町までを含む巨大な計画でした。
嘉明自身は1627年に会津40万石へ転封されたため松山城の最終的な完成を見ることはできず、その後の工事は蒲生忠知へ受け継がれました。
さらに1635年からは松平氏が松山城主となり、天守の改築や火災、幕末の再建を経て現在の松山城へつながっています。
したがって、現在の大天守そのものを加藤嘉明が建てたわけではありませんが、勝山を中心とする城郭配置や松山城下町の基礎を築いたという意味で、嘉明は松山の歴史を語るうえで欠かすことのできない人物です。
松山城を訪れる際は天守からの景色だけでなく、山全体の地形や石垣、複雑な登城経路にも目を向けると、数々の戦場を経験した加藤嘉明がどのような城を目指したのかをより具体的に想像できます。
